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第4話 北へ向かう花嫁馬車②

Author: なつめ
last update publish date: 2026-07-02 18:52:44

 扉が閉まった。

 外の音が、厚い木と布越しに少し遠くなる。馬車の中には淡い革の匂いと、乾いた木の香り、座席へ詰められた羽毛のやわらかな匂いがこもっていた。向かいの席へミレナが座り、膝の上に小さな籠を置く。湯を入れた小瓶と、乾いた果実、薄い焼き菓子、酔い止めの薬草が入っている。

 ほんのわずかな揺れのあと、車輪が動き出した。

 石畳を踏む音が規則正しく響く。ごろ、ごろ、と低く腹へ伝わる振動。伯爵家の門を通り抜ける時、車輪が段差を越えて少し大きく揺れた。セレフィアの体もわずかに揺れる。その瞬間だけ、不意に胸が詰まった。ああ、本当に出たのだと。もう歩いて自室へ戻ることはできないのだと。

 門の外へ出ると、王都の朝の匂いがした。石造りの街路、まだ開ききらぬ店先、パン屋の窯の熱、濡れた路地の冷え、遠くで鳴る教会の鐘。カーテンの隙間から覗くと、道の脇では早朝の商人が荷を下ろし、通りを掃く少年が眠たげに箒を動かしている。誰も、この馬車の中に「偽りの花嫁」が座っているなど知らない。黒い車体に伯爵家の紋がついているだけで、人はそれぞれの朝を生きている。

 それが奇妙に心細かった。

「……寒うございま
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     そう思おうとする。けれど、リュゼルがこちらへまっすぐ敬意を向けていた時と、そのあとゼルヴァンが彼の名を呼んだ時とでは、明らかに中庭の空気の硬さが違った。 セレフィアがそこへ密かに戸惑っていると、不意に別の方向から小さな気配がした。 バルタザルだった。 老執事はいつのまにか回廊の柱の陰へ立ち、ひと連なりのやり取りを最初から見ていたらしい。その表情はきちんと整っている。整っているのに、目元の奥だけがひどく静かに面白がっているのを、セレフィアは見てしまった。 見てしまった瞬間、頬の内側が熱くなる。 バルタザルは何も言わない。ただごく自然に歩み寄り、ネリサへ「午後の帳面の件ですが」と、まったく別の実務の話を始める。けれどその一拍だけ遅れた入り方が、どうにも「わかっている」人のそれに思えてならなかった。 ゼルヴァンもまた、バルタザルの気配には気づいているはずだ。だが何も言わない。ただ木杯をもうひと口飲み、騎士たちのほうへ視線を流す。 セレフィアはその横顔をそっと見る。 表情は平静だ。けれどたしかに、さっきリュゼルへ向けた時の空気の鋭さは、まだ完全には消えていない。とはいえ、それは「怒り」と呼ぶほど強いものではない。もっとずっと細く、静かな違和感。ひとことで言えば、機嫌をほんの少しだけ損ねている人の空気。 それが、どうしてなのか。 いや、もうほとんどわかっている。わかっているからこそ、セレフィアの胸はまたひどく落ち着かなくなる。 リュゼルは若い。まっすぐだ。敬意も好意も、隠さずそのまま顔へ出す。彼がセレフィアをどう見ているかといえば、まずは仕事ぶりへの尊敬だろう。奥方だからではなく、ちゃんと見て、考え、役に立つことをしている人として見ている。そのまっすぐさに、セレフィア自身も少しだけ嬉しくなった。 そして、ゼルヴァンはたぶん、それを見ていた。 見ていて、そのことに、ごくわずかだけ機嫌を悪くした。 そんなことが、あるのだろうか。 それがもし本当なら、あまりにも甘く、あまりにも信じがたい。「奥方様」  ネリサがいつのまにかセレフィアのそばへ戻っていた。 「こちらの壺はもう下げてもよろしいでしょうか」「ええ」  と答えたつもりなのに、少し声が上ずった。 ネリサの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。だが彼女は何も言わず、壺を下げる。バルタザルはあ

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     セレフィアは、自分の手の中の紙を見下ろした。きちんと整えたつもりの小さな提案書が、急に少し滑稽にも思える。遅かったわけではない。意味がなかったわけでもない。だが、自分が「こうしたらどうか」と考えるその前に、ゼルヴァンはもう、その案が形になるための土台だけを黙って整えていたのだ。 言葉より先に、手を打つ。 それが彼なのだと、頭では知っていた。帳簿の補正の時もそうだった。市場へ下りることも、春までの契約もそうだ。けれどいま、そのことがあまりにも具体的に目の前へ現れると、胸の奥が別の意味でざわついた。「……どうして」  思わず、小さくそう漏れる。 バルタザルは、セレフィアの顔を一度だけ見た。その視線には、わずかなあたたかさがある。老執事らしい、見ていても決して余計には言わぬ人の目だ。「奥方様のお考えが、口にしたまま棚へ上げられぬように」  彼は言う。 「旦那様は先に場を整えておくお方です」 それだけだった。 だがそれ以上、何を言われるよりもその説明が胸へ沁みる。口にしたことが、棚へ上げられぬように。そのために先に予算と人手を押さえておく。形にできるよう、黙って道をあける。 それは命令でも、手柄の横取りでもない。ましてや大げさな「任せろ」でもない。ただ、自分の案が現実へ落ちるための見えない支えだけを、もう先に整えておくのだ。 セレフィアは、ゆっくり息を吸った。 これが彼の愛情なのかもしれない、と、ふと思う。 まだ「愛されている」と言い切るほどのものを、彼から直接渡されたわけではない。甘い言葉もない。二人きりの時に名前で呼ばれ、外套をかけられ、必要だと思うことを先に整えられる。そのどれもが、別に恋の証として差し出されたものではないだろう。彼にとってはただ筋が通っているから、必要だから、そうしただけなのかもしれない。 けれど、それでも。 言葉より先に手を打つ人が、自分の案が埋もれぬよう先に場を整えていた。 その事実は、どんな飾ったやさしさよりも深く胸へ刺さる。「……見に行っても、よろしいでしょうか」 自分でも少し頼りない声でそう尋ねると、バルタザルはすぐに頷いた。「もちろんにございます」  そして、わずかに目元をやわらげる。 「ご自分の案がどう形になるか、見ておくのは大事なことでしょう」 最初に向かったのは薬草乾燥庫だ

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